織田廣喜の略歴
織田廣喜は1914年、当時の福岡県千手村(現・嘉麻市)で生まれ、少年時代を碓井村(現・嘉麻市)で過ごした後上京。
電機会社で働くなどさまざまな仕事をしながら苦学して画家となり、二科展で出会った妻リラ(1927-1998)の支えで絵筆一筋の人生を邁進、戦後間もない1950年に二科会会員、1980年に二科会常務理事、1995年には日本芸術院会員になるなど、2012年に亡くなるまで意欲的な創作活動を続けていました。
その一方で、1983年にリラがくも膜下出血で倒れてからは亡くなるまで、寝たきりの妻を介護し、愛し、ともに生き、絵を描き続けました。
そうして描かれた作品は哀愁を感じさせる女性の姿や幻想的に描かれた風景が特徴です。
織田廣喜略年譜
西暦(年) | 年齢(歳) | 月 | 出来事 |
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1914 | 0 | 4 | 19日福岡県嘉穂郡千手村(現嘉麻市)に父鶴吉、母マサノの次男として生まれる。 |
1917 | 3 | 隣村の碓井村大字飯田(現嘉麻市)に転居する。 | |
1921 | 7 | 4 | 碓井村立碓井尋常高等小学校に入学する。この頃父の本棚から絵本がわりに美術書を持出し眺め、次第に模写のような事を始める。 |
1924 | 10 | 千手村の西楽寺の雲外和尚に墨絵のてほどきを受ける | |
1927 | 13 | 全国学芸品展覧会(主催:筥崎宮御造営落成奉祝会・福岡県教育会・九州日報) | |
1929 | 15 | 3 | 碓井尋常高等小学校高等科を卒業 |
父が病気のため働きにでる。陶器の絵付け、ちょうちん屋の図案描きを経て福岡市の菓子店「凪洲屋」に勤めたのち碓井村へ帰り郵便局員として働く。 | |||
村祭りの時に自宅の玄関先に水彩画、鉛筆画を並べ個展を開く。 | |||
1931 | 17 | 碓井村の帝展入選画家で初代飯塚市教育委員長を務めた犬丸琴堂(慶輔)に油絵の指導を受ける。 | |
1932 | 18 | 犬丸琴堂の勧めと両親の説得の末、上京する。国鉄「臼井駅」から「折尾」を経て丸一日かけて東京へ。 | |
中野に住む同郷の友人宅に住み、その後氷屋に住み込みで働く。 | |||
庭の掃除や屋根塗り、植木の手入れなど便利屋的な仕事、化粧品の訪問販売などをし学費を貯める。 | |||
1934 | 20 | 日本美術学校<外部リンク>絵画科に入学。 当時大久保作次郎<外部リンク>が講師。 後に藤田嗣治<外部リンク>、林武<外部リンク>も指導にあたる。 |
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経済的に苦しく、舞台の描き割りや歌舞伎座の黒子をしたり、泡盛の空瓶に絵を描いて売り歩く。 | |||
1937 | 23 | 9 | 第24回二科展<外部リンク>に初出品するが、落選する。以後も搬入を重ねる。 |
藤田嗣治、岡田謙三、鈴木信太郎に指導を受けながら制作に励む。 | |||
1938 | 24 | 美術雑誌『みづゑ<外部リンク>』の主幹であった大下正男の書生として勤め、『みづゑ』の配本、図版の整理などを行う。 | |
1939 | 25 | 3 | 日本美術学校西洋画科を卒業 |
1940 | 26 | 8 | 第27回二科展に<未完成>を出品、初入選 |
1943 | 29 | 徴用により、大下家の勤めを辞し、横河電気製図部で働く。 | |
1944 | 徴用された工場の疎開のため、富士山麗に転居する。 終戦後、進駐軍に雇われ、憲兵隊のホールや司令官の宿舎に壁画を描く。ホールに描いた壁画は20人ばかりの女性群像であった。 |
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1946 | 32 | 9 | 二科展再建第1回の第31回二科展に『黒装』を出品、二科賞受賞 |
同展へ小松島(徳島県)から萬宮リラも『猛禽』を出品し初入選となる。 | |||
二科展パーティー会場まで案内したことがきっかけでリラとの手紙のやりとりがはじまる。 | |||
1948 | 34 | リラとの結婚の許しを乞うため小松島(徳島)の萬宮俊二(リラの父)を訪ねる。 | |
岡田謙三の家(目黒区)に住み込む。二科展に大作を出品することを学ぶ。 | |||
1949 | 35 | 9 | 二科会準会員に推挙される。 |
1950 | 36 | 8 | 岡田謙三が渡米。岡田の依頼で、中原実の家(武蔵野市吉祥寺)に住み込む。 |
9 | 第35回二科展に<讃歌>を出品、二科会に会員推挙される。 | ||
1951 | 37 | 春 | 萬宮リラと結婚 |
夏 | 戸山ヶ原の旧陸軍の厩舎を借り、1000号の大作『月見』を制作 | ||
秋 | 杉並区上高井戸に転居する。 | ||
1953 | 39 | 2 | 長男廣比古誕生 |
1954 | 40 | 9 | リラが二科会会友推挙に推挙される。 |
1957 | 43 | 1 | 世田谷区上祖師谷に転居する。 |
1960 | 46 | 3 | 初めての渡仏 |
1961 | 47 | 6 | 帰国 |
1962 | 48 | 4 | 父 鶴吉死去 |
7 | 妻リラ、長男廣比古とともに渡仏。スペイン、イタリアへも取材旅行する。翌年4月帰国。 | ||
1966 | 52 | 4 | 横浜出港の英国船で渡仏。9月に帰国 |
1968 | 54 | 2 | 第52回二科展出品作<噴水とマヌカン>が1967年度文部省買い上げ決定 |
9 | 第53回二科展に<小川の女たち>他を出品、内閣総理大臣賞受賞 | ||
1969 | 55 | 10 | 29日 次男きじ男誕生 |
1970 | 56 | 11 | 渡欧する。 |
1971 | 57 | 4 | パリで初めての個展をエルヴェ画廊で開催 |
9 | 第56回二科展に<水浴>(ミュゼ・オダ蔵)を出品、東郷青児賞受賞 | ||
1973 | 59 | 2 | 家族と共に渡仏。往路ではハワイ、タヒチ島、フィージー諸島、アカプルコなど巡遊。各地に一週間ほど滞在しながら取材をおこなう。3か月の船旅の末ロンドンを経てパリへ入る。7月に帰国 |
9 | 二科展の出品を終え、渡仏。翌年4月に帰国 | ||
1980 | 66 | 5 | 二科会常務理事に就任する。 |
1981 | 67 | サロン・ドートンヌ<外部リンク>会員に推挙される。 | |
碓井町(現嘉麻市)住民センター文化ホールに緞帳『水辺の少女』が設置される。 | |||
1982 | 68 | 2 | リオ・デ・ジャネイロ名誉市民となる。 |
3 | 福岡市美術館において<憂愁の詩人画家>織田廣喜展開催 | ||
7 | 母 マサノ死去 | ||
1983 | 69 | 暮れ | 浅草界隈の取材を行い制作する。 |
リラ夫人、くも膜下出血のため約3か月入院する。 | |||
1985 | 71 | 7 | 浅草を描く織田廣喜展(銀座和光)を開催 |
1987 | 73 | 5 | 第8回日伯現代美術展受賞者展で審査員を務める。 |
1991 | 77 | 碓井町(現嘉麻市)町制施行50周年を記念し、『パリの少女』『碓井町役場風景』を制作、同町へ寄贈する。 | |
1992 | 78 | 4 | 勲4等瑞宝章受章 |
6 | 織田廣喜ふるさと展が碓井町(現嘉麻市)住民センター文化ホールにて開催される。 | ||
1993 | 79 | 10 | 碓井町(現嘉麻市)立碓井小学校体育館に緞帳『讃歌』が設置される。 |
1994 | 80 | 5 | ミュゼ・オダ<外部リンク>(福岡市)開館 |
1995 | 81 | 6 | 恩賜賞・第51回芸術院賞受賞 |
11 | 芸術院会員に就任 | ||
1996 | 82 | 5 | 碓井町立織田廣喜美術館開館 |
1997 | 83 | 5 | 碓井町名誉町民の称号を贈られる。 |
12 | 翌年3月まで西日本新聞「聞き書きシリーズ」に『絵筆とリラと<外部リンク>』と題して78回の連載となる。 | ||
1998 | 84 | 5 | 20日 妻リラ死去 |
6 | 赤い帽子・織田廣喜ミュージアム開館 | ||
7 | 次男きじ男とともに渡仏 | ||
2003 | 89 | 5 | 勲3等瑞宝章受章 |
7 | フランス芸術文化勲章・シュバリエ<外部リンク>受章 | ||
2006 | 92 | 5 | 二科会理事長に就任 |
7 | 織田廣喜美術館開館10周年記念展「織田廣喜の抒情的で優美な世界」開催。同展会場ではにリラとの出会いのきっかけとなった第31回二科展以来60年ぶり『黒装』と『猛禽』が40年の時を経て並んで展示される。 | ||
2009 | 95 | 5 | 12日 長男廣比古パリにて死去 |
2012 | 98 | 1 | 自宅で入浴中に脱水症状で倒れ入院 |
4 | 20日 二科会総会にて名誉理事長に就任 | ||
5 | 30日 東京都八王子市の病院にて死去 | ||
6 | 6日 東京都 代々幡斎場にて通夜式 7日葬儀 |